留学・金融・奨学金日記 慶應

慶應生が経済とか金融とか奨学金とか試験とか就活をつらつら書いていくブログ

人生スパンでの投資の考え

•年収2000万越え、または事業にてインカムを得るようになるまでは、浪費はしない

→コストを経費に転換できるようになって初めて浪費すること

→それまでは資産を作ることに注力する

 

•金融危機に賭ける

→金融危機は歴史上常に繰り返される。

→トヨタ自動車PBR推移を見ながら、下がりすぎか判断。

→キャッシュがあるなら、不動産(流動性の高い不動産のある地域に)。ないなら、インデックス大量買い。

 

•アメリカ投資信託大量購入。継続保有。s&p500。歴史上常に上昇してきた。いまでも、発展途上国。

 

•明日から株式投資、ニュースで感覚的に。間違いなく勝てる、と思った時だけ。

見るのとするのと

“見る”ことには、なんの障壁もない。

サッカーの試合を見ることも、劇団の劇を見ることも、オペラを見ることも、お金さえ払えばいい。

しかし、実際に”する”のは障壁が急激に大きくなる。サッカー選手としてピッチに立つ、劇に出る、オペラをする、これらは日々の練習が必要不可欠になる。

 

でも一つだけ確実なことは、常に見るよりする方が楽しいということである。

リレーの選手を小中高とやってきた。常に、楽しかった。終わった後の満足感にあふれた。見ているだけでは絶対に味わえないものだ。

サッカーだって、ゴールを決めたとき最も嬉しいのはファンも嬉しいだろうが、ゴールを決めた選手本人だろう。(これは経験則的にそう思うというだけだが。)

 

人は大人になっていくたびに”する”ことを諦めて、”見る”ようになる。サッカー選手を目指していた多くの子供がサッカーファンとして、一観客としてサッカーの試合を見始める。

 

なにが言いたいかというと、常に”する”ことにむかって諦めず努力を続けることが大事だ。

 

きみはいま何を、”する”ことができるだろうか?

マッキンゼーの方向性とコンサルの凋落

マッキンゼーが新卒採用者を40名にすると聞いた。

自分の周りにもぼちぼち内定者がでている。

 

大きくこれまでとは異なる経営戦略に舵をとったように見える。

コンサルはこれから先の方向性が悩まれる産業の一つだと思う。

 

情報へのアクセスの容易さが生まれ、社会全体での情報の非対称性の解決が起きている今、コンサルの仕事の価値の創出は難しくなっている。

慶應の経済の自分のゼミ教授も、たかが学部を卒業した学生を新卒で雇って、企業にどんな付加価値が提供できるだろうか?と疑問を投げかけていた。

 

そのような外部環境の中で、コンサルの役割は、以下の二つに大別されていくと思う。

①プロフェッショナルファームとして企業が自らで生み出せない付加価値サービスを提供し、企業のソリューションを解決する。その為の、情報、知識、思考力、人脈を持ったコンサルタントを抱えるコンサルファーム。

②企業の処理作業の外務委託、意思決定責任の外部委託(大企業にありがちな誰も責任をとりたくないという中で生まれる需要)などを行う、アウトソーシング専用コンサルティングファーム。

 

もちろん、①は高付加価値サービスで、②は相対的に低付加価値サービスである。

そして、②は参入障壁が低いサービスゆえ、多くの競合を持ち、厳しい価格競争に晒されるだろう。①の場合、高付加価値で利益率は高いが、人材確保、ブランドの維持などのハードルの高さがある。

 

あくまで噂話レベルだが、マッキンゼーは大阪支社をつくり、また新卒で40名を採用した。コンサルファームの商品は、あくまで人であり(高度なAI機能、データ分析機能も商品になりえるが)、40名も雇った上で、①のファームのような高付加価値サービスを提供できるとは思えない。

 

採用人数が増えれば、労働者に与えられる教育リソースは低減するし、採用時の選考合格難易度も下がり、生産性の低い労働者を受け入れざるおえない。

 

コンサルは岐路に立たされている。

 

日本の大学生とコモディティ人材

コモディティ化するというのは、付加価値をもたず面白みのない他と一緒の均一商品化することをさす。

日本の大学生は均一化された世界の中で、恐ろしいほどの同質化が起き、大学生総コモディティ化が起きていると感じる。

 

会話、バイト先、就職先、日々の生活、全てが非常に均一化しているなぁと感じる。

授業をだるいといっててきとうに受け(別に授業をしっかりと受けることが正しいわけでもない)、同じような飲み会を繰り返している。SNSで流行ったお店や遊び場所にいって、写真をとって帰ってくる。話題も、どのグループの話題を聞いても大体代わり映えしない。

 

就職活動になると、バイト体験、国際交流体験、一年とかの留学体験、学生団体体験、などすべて代わり映えのはない、話をしている。日本の大企業の面接官だけはしたくない。同じような話を拷問のように聞かされ続ける。

 

そんな同質な人達は、みんなと同じような会社に入ってみんなと同じような仕事をして、みんなと同じような給料をもらって、みんなと同じように日々を過ごしていく。

 

日本の大学生ほど時間も経済的にも余裕のある集団はいないのだから、もっと面白く人と違っていいじゃないか、と思う。そう生きていれば、企業側にもこの人はほかにはないこういう部分があるな、と明確にわかってもらえる何かが生まれると思う。

 

スポーツに全力で打ち込んで真剣に日本一を目指す奴、金融の勉強が大好きで一生懸命やってたら教授に見初められ学部生なのに共同論文をかいた奴、株投資を全力でやって家を学生の間に建てちゃうやつ。本を大量に読みまくって、小説家としてデビューする奴。

なんでもいい、なんでもいいから、面白い何か、人とここは明確にちがう、という何かがあれば、その独自性で人より高い賃金を得られるし、話していても面白い。

 

どこにでもいるような人となぜずっと話していたいだろう?

 

 

就職が決まって考えること

就職が決まった。

かねてより考えていた外資系の金融機関の、かねてから考えていた部署になった。

一見、単純に幸せなだけだが、色々考えることはある。

 

これは将来見返したときにこんなこと考えてたなぁ、と思い出して楽しむための自らへの備忘録である。

 

仕事にはいろんな能力、人としての性質が求められる。自分をその観点でみてみると、ソフトなスキル面での強み、弱みや、ハードな面での強み、弱み両方ある。出世できるか、でいえばノーな気がするし、イエスな気もする。

でもいつも他者のことを考えて、謙虚(いわば愚直に)に、真面目に生きていれば味方をしてくれる人は多く、人生悪くはならないと考える。世知辛い外資金融の世界にもそういったロールモデルを見つけられてよかった。

お金、キャリア、家族、人とのつながりなど考えなければならないことは多い。 

 

家族含め幸せなつながりを多く持つことは幸せだし、日々おいしいものを食べるのも幸せだし、いいマンションに住めるのも幸せだ。

どんな人生を過ごすか。今からワクワクするのと同時に、不安で一杯でもある。でも、この不安さが良い。不安だからこそ、常に「俺はできる」とは思わず、謙虚に下手にでて学んで行けると思う。

 

経済的なことを言えば、給与所得をもらっている段階では貯めるだけ貯めよう。いろんなスキームを考え尽くして貯めていく。シェアリングを徹底して、コストを下げる。そのうちに、個人事業主としてコストではなく、経費で落としていく段になった場合に、初めて意思決定を変えようと思う。

現状で費用はコストでしかないため、常にそれがコストと見合う行動なのか、十分な便益を得ているのか、を考えて生き抜くこと忘れないようにしよう。

 

アメリカ留学を終えて

アメリカの大学での留学生活を終えた。アメリカの主要都市の1つで、大学の地域が非常に豊かなアメリカ人が多くすむ場所に非常に近い兼ね合いで、アメリカの上流層を沢山みた。その中で、経済大国アメリカの経済格差に関して感じることが多かった。

 

慶應でもエレファントカーブ(https://www.google.co.jp/amp/business.nikkeibp.co.jp/atcl/opinion/15/213747/010700040/?AMP=1) という、世界の経済格差に関する昨今の変化を学んできた。先進国の上位層が富を蓄え、格差が助長されていることを表したカーブだ。これは、ピケティの資本論でも同じことが言えると思う。

 

アメリカでは、この上位層の存在をまざまざと感じた。結構一般的なアメリカ人がプール、ジャクジーが付いてて、綺麗にされた庭があって、犬が走っていた。それが本当に町の普通だった。すごい国だな、だから世界中から人が集まるんだなぁ、と思うのと同時に、どうやってこの恵まれた環境は支えられているのか?と疑問に思った。昼間、街を歩いていると、そういった家1つ1つにオンボロな車がとまり、プールの掃除や、ガーデンの庭師などが来ることに気付いた。彼らは肌の色を見るとみんなメキシコ系の移民だ。中には、アメリカ人の家の庭で走る犬たちを散歩に連れて行くというだけの仕事をするメキシコ人労働者までいた。
彼らは仕事を低賃金で行い、車さえ持つのは難しそうで、平気で窓ガラスが割れたまんまの車を使ってる人たちばかりだ。
アメリカ人のそのような豊かな生活は、完全にそのメキシコ人低賃金労働者の存在に支えられている

 

これは、アメリカに関わらず歴史的に常にあったもので、下位層の人たちの犠牲によりある層が大きな利益を経済、金融を用いて獲得してきた例は無数にある。イギリスで有名なケンブリッジ大学が発達した背景には、授業料などの資金をロスチャイルド家を通じて植民地ビジネスの投資に充てたことにある。植民地で先住民を非常に低賃金で働せ、莫大な利益を得たため、ケンブリッジの学者たちは金銭を気にせず非常に牧歌的な環境の中で研究に専念できた。
ドイツでも、企業が成長し生産を拡大して行く中で、労働人材が不足したため民間企業の強い望みによりいわゆる雇用調整弁として移民を大量に受け入れていた。

このように、先進国の一部のために弱者が搾取され、格差が拡がる現象は場所、時代問わず起きている。これからも先も起き続けるだろう。

 

そんなことを考えさせる留学だった。

 

 

東大でも京大でもなく慶應。その理由

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少々後付け感もあるが、私は東大でも京大でもなく、早慶に入ることは結構選択肢としてよいことだと思っている。

慶應を自分が選んだ理由は以下だ。

 

1. 遊びにも勉強にもリソースをかけられる。

東大、京大受験は僕みたいな一般ピーポーの場合本当に勉強に高校の貴重な青春を謳歌できる一年を捧げないと受からない。しかし、高校時代は彼女を作りたいし、スポーツもしたい。高校時代など若い時に、彼女作りに励んだりスポーツを皆と楽しむ中でコミュ力は自然と高まるだろう。コミュ力は就活など多くの面で必要とされる重要な能力だ。社会でコミュ力ある早慶生と、コミュ力の比較的ない東大生だとどちらが需要が高いかはその社会的性質により、断定することが難しい。

 

2. 慶應は蓄積された情報量が幅広く多い

東大は官僚育成学校であり、官僚に特化された情報量が集まっている。しかし、慶應は幅広く就活をしており、様々な情報が手に入る。例えば経済学部の場合、日銀などの政府系金融機関、省庁にも東大には圧倒的に劣るがある程度人を入れていて、ノウハウはある。そして幅広く民間企業に入っていて、それらの情報は死ぬほど手にはいる。就活は情報戦である一面もあるため、この環境は非常に大きいと感じる。志望先企業に応じては慶應でもなんら遜色ない。(研究に行きたいなら話は別だが)

 

3. 同窓意識の強さ

慶應生は良くも悪くも同窓意識がつよく、就活、転職、昇進において強く作用する状況も多い。

 

4. 留学先の豊富さ

東大が交換留学先を5つほどしか持ってない一方、慶應の場合100校ほど持っており、その中にはアメリカのアイビーリーグなどの超名門も含まれる。アイビーリーグの正規の授業料は400万程度/年 であるため、交換留学で年100万程度でアイビーリーグに在籍できるのはでかい。このメリットを生かせば、国立との授業料の違いなど一瞬で取り戻せる。アイビーリーグに在籍していれば、日本、米国、さらには世界においての就職能力がつくからだ。年収もそれに応じて大きく上がる可能性がある。

 

僕はこれらの利点により慶應が自分にとっては最適と捉えた。しかし、研究者になりたかったり官僚になりたいなら、国立がやっぱりいいだろうし、留学し自己投資をするつもりがないなら慶應に入るメリットは削られるため国立でも良いかもしれない。

そのため、これはあくまで僕のケースであり、ケースバイケースでコストベネフィット分析をするべきだと思う。